4.
マンションの小さな一室で、私たちは身を寄せ合うようにして暮らした。
彼の小説はきっと静かに誰かを救いながら、世の話題になることも、文壇を騒がすこともなかった。一方で、勤め先の大学では彼はとても人気があるようだった。結婚した次の春から講師になり忙しそうだったけれど、毎日家に帰ってくると私が作った夕食を残さずに食べながら、その日あった出来事、講義の出来、学生からの思いもよらない質問などについてを楽しそうに話した。私は相槌を打って、笑って、補足を求めて、続きをねだった。
それでも彼は休日になると昼まで寝て、時々家事をしている私に寄りかかるようにして後ろから抱きしめ、深いため息をついたりした。私はそんな時、きちんと振り返って繊細な彼を抱きしめ返しながら、何でも言っていいのよ、と言う。
「弱音も不安も、何でも聞くわ。」
彼は決まって安心しきった顔をして、うなずくのだ。
元旦には、膨大な量の年賀状が彼宛てに届いた。大半は学生からで、好意溢れるものばかりだった。彼は一枚一枚丁寧に読んで、返事を書く。そして毎日の隙間で書き上げて出版したばかりの宣伝を、小さく書き入れた。
バレンタインの日には、二つの大きな紙袋いっぱいにチョコレートの包みを詰めて帰ってきた。甘いものが苦手な彼は、それをそのまま私に押し付け、全部食べてと苦笑した。
それでもこれは手作りよ、と教えてあげるとそれは一口ずつ食べた。その中に本当に心のこもった告白が綴られた手紙が一通、カードが一枚入っていて、彼はそれを読んで困ったように笑い、処理にさんざん悩んだ挙句私に申し訳なさそうに、捨てて、と言った。
「こんなに皆に好かれてるあなたの講義、一回でいいから受けてみたいな。」
そう言うと、
「からかわないでよ。」と彼は顔を真っ赤にした。
「からかってるわけじゃないのに…」
「恥ずかしくて講義どころじゃなくなるから絶対にやめて。」
それなら彼の一面をずっと知らないままだわ、と残念に思っていたある日、夫は同僚の講師を家に連れてきた。私の知らない彼の日常の小さな一片がこの部屋に舞い込んできて、私は浮足立って彼らをもてなした。
といってもほとんど台所に立って食事を出して、お酒とつまみが切れないように目を配っているだけだったけれど、時々話に加わらせてもらって、帰り際は玄関まで見送ることができて、私は嬉しかった。
散らかった部屋や食器を片づけていると、外まで同僚を送って戻ってきてから、彼は私の肩に腕を回してきて、「疲れた?ごめんね。」と呟いた。私は笑って首を振った。
「すごく楽しい。」
彼はほっとしたような吐息を私の首筋に漏らした。それからは片づけは必ず手伝うことに決めたようだった。
度々同僚の人たちが遊びにくるようになって、次第に慕ってくる学生も連れてくるようになった。はじめは半ば強引に押しかけられていたようだったけれど、彼もやはりどこか嬉しそうに見えた。
同僚にも学生にも「綺麗な奥さんですね。」と言われると、必ず「僕の一目惚れだったんです。」と答えるので、その時ばかりは私は彼を睨んだ。
私は彼の日常を垣間見れるような、信頼されきって、楽しそうに囲まれている様子を見ている時間がとても好きだった。日々は穏やかで、私はそれをずっと続くものだと疑っていなかった。