あぁもうマジで家事は無理だって話
もはや久しぶりであることに何の感情も抱かなくなってきました。お久しぶりです。金井です。
私の長年の悩みは「頭が悪い」ということなのですが、「頭が悪い」とどういう弊害が生まれるかというとまあ弊害だらけでうんざりするところではありますが、人生単位で見ると「思想が無い」ということであります。
ちなみに「頭が悪い」同志諸君に申し上げたいのは、それは決してあなたのせいではないといことです。頭の出来はある程度生まれた時から決定されていて、それは自ら選べることではありません。そう生まれついてしまったからにはそれなりの生き方をしていくしかないだけです。
というわけで、便宜上「悩み」と申し上げましたが永遠に解決しないとわかっている問題はおそらく「悩み」の定義から外れているんだろうと推察し、私は悩んでいるわけではないという楽観的な結論に辿り着いてはいますのでご心配なく…
「頭が悪い」と「知性が無い」はニアイコールだと信じ、せめて「知性がある」人間になりたいと思っていて、教養くらいは身につけようと頑張ったり頑張らなかったりする時期がありますが、これもかなり頭の悪さに阻害されることでありまして、現在私には教養もなければさして知性もありません。
そんな私の憧れはそう、三島由紀夫氏です。「頭が良い」と「知性」と「思想」の塊である氏は、私がずっと求めてやまない生き方をした人物です。
思想に関して100%賛同できるかというとまあなんだ、ちょっとやっぱ極端だなぁとか思っちゃったりするし、そもそも完全に理解できる頭がないのでなんとも言えないのですが、とにかくその思想と直結した生き方は私に不可能なことなので、眩しく見えてならないのです。
私がはっきりと自分の頭が悪いと認識させられたバイブルが氏の「不道徳教育講座」でして、これによって知性なくして思想なし、という現実と、頭が良い人の思考の変幻自在ぶりを突き付けられたわけですね。
なんてことを、すっかり忘れてパッパラパーに生きてきていたわけですけれども、最近実家暮らしの私の両親が、コロナに倒れました。
私、独身主義というわけではないのに、結婚への恐怖が潜在的にありまして、ずっと実家で母という名のジャイアン女帝の支配下で生きておりますが、そうせざるを得ないという経済的な理由もありつつ、それなりのメリットを感じていることも事実です。
つまり9割方、家事をしなくても女帝の爆撃さえいなしていれば、なんとか暮らしていけるのです。
結婚への恐怖というのは、家事への恐怖に他なりません。家事は恐ろしい。それはゴールのないものです。シベリアの穴掘りです。賃金が発生しない終わりなき労働です。
家事の最たるものは何か、それは料理です。
家の中で生き残ったのは私だけとなり、自動的に食事係という役割が降ってきました。役割は果たさなくてはなりません。なんたって今まで家事のほとんどを放棄していたわけですから、対価を払う時が…それが完全返済とは程遠いとしても、とにかく払わねばならぬ時が来たのです。それくらいの常識は私にもあります。病人には食事を与えなくちゃいけないし。
一食目は割と楽しんで作れました。料理とはクリエイティブなものである、ということは常々言われることでありまして、私も広義ではクリエイターの端くれでございますから、まあこなせるわ、などと思っておりました。
バーロー!そんなに甘くない!
料理はクリエイティブ? いえ、それは家事、それは義務。義務は果たさなくてはならない。義務を淡々と果たしていくと人はどうなると思いますか。
思考しなくなるのです。
あえて言いましょう、それはもう良い年した大人の私にとって苦痛ではありませんでした。義務を果たすのは当然のこと。今まで逃げ回ってきたけれど、いつか降ってくるのが義務、人生とはそういうものと知っているからです。
苦痛ではない。それが救いかと思いきや、それこそが芸術家にとっては罠だったのです。
拒否反応は「疲れ」という形をとって現れました。苦痛なき精神世界で、疲れだけが沈殿してゆくのです。自分でも気がつかないほどそれはそれは静かに。
しかし精神的な疲れというものはそのうち肉体に影響を及ぼしてきます。精神的な疲れが肉体にどういう作用を与えると思いますか。
眠るのです。
睡眠神の申し子、睡眠教の教祖である私が今更何を言ってるんだと思われるでしょう。
違います。
睡眠教の教えは、理由なき眠りです。それはただやって来るもの、疲れていようがいまいが、当たり前に訪れる神のご加護、愛なのです。
しかし、今回は違います。理由のある眠りです。疲れて疲れて疲れ果てて、眠るのです。
食事を作るなんて、実際大した時間ではありません。一食1時間もかかりません。
しかし恐ろしいことに、一日の全てが食事に支配されます。脳のリソースが全て献立とその手順に費やされるのです。
私は遂に、献立を考えながら、いえ、献立のことしか考えられず、料理以外の時間を全てヨギボに埋まって眠るという地獄の一日を過ごしました。
何故ベッドではなくヨギボか? それは料理のためにすぐに起きなくてはならないからです。
日が暮れて薄暗くなったリビングで目を覚まし、ヨギボからスライムのようにべっとりと抜け出しながら、初めて自覚しました。
やべぇ…、私めっちゃ疲れてない…?
義務を果たし始めてキッカリ三日三晩。
なんと、たった三日三晩で私は限界を迎えたのです。
料理のこと以外何も考えられないことがこんなに疲れることだとは思ってもみず、私は大変動揺しました。
そしてとにかく、何か思考しなければ本当に自我が死んでしまう、でも自発的には何も考えられない、であればとにかく誰かの思考を浴びなければ、誰か、何か…
とアマプラを開き、これだ!と受け取った啓示が、「三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実」というタイトルでした。それまで三島由紀夫という名すら、私の脳内には存在していませんでした。あんなに憧れていたのに!
結論から言えば、そのタイトルをタップして約2時間後、私は号泣していました。
何故そんなことになるんでしょうか。共産党の意味もそんなによくわかっていないのに?
そこには眩いもの全てが詰まっていました。三島氏と東大生たちの言葉の決闘、親和。忍耐強い対話。氏の若者に対する、圧倒的な愛情とユーモア。ぶつかっては離れる、理想への情熱と情熱。分かり合えそうで分かり合えない立場の違い、もどかしさ。そしてそう、思想です。
知性がないと思想は形成されない。
人は知性によって、立場を決定する根拠を得るからです。思想は立場です。一点に自分の足場を置き、その定めた視点から物事を見ることによって、視界の解像度を格段に上げていくのです。そして足場を一つ作ることに成功していれば、異なる足場からの借景を見ることができる。そして思考を加速させていく。
思想が先にあって、知性が後からついてくるということは、残念ながら無いのです。だから私は思想が欲しかったのです。
登場人物たちは皆、その然るべき順序を経て思想を獲得した者たちでした。だからこそ、双方にリスペクトがありました。
私は自分が一生得られないもので肉体を充満させた者たちを見て、その尊さに涙したのでした。
そして思った。
こいつら、毎日の献立に追われたりしたことないんだろうな、って…
心ゆくまで思考を展開し続ける資格を得られるのは、頭の良い者たちだけです。その眩さに引き寄せられて、ご飯を作ってくれる人が現れる、そこまでの境地に達さない限り、人生は献立に支配されます。
私は献立側の人間であることが自分でわかっています。
あとはいつまで逃げ続けられるかです。
出来るだけその期間を引き延ばし、思考する自由を手にし続けられるかの戦いを続けるしかありません。私以外の誰の役にも立たない戦いなので、それは無意味そのものです。
この先野垂れ死ぬか、献立を考え続ける人生になるか、それはまだわかりません。誰も興味のない大いなる未知を未知としてまだ内包していることを幸福だと思うことにして、「明日はご飯作らなくていいよ」と言う両親の回復に感謝し、とりあえず生きていこうかな、と思う夜明けなのでした。
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